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産前産後ホテルを広げる「ぶどうの木」、その文化人類学的サービスデザインとは。
出産直後から始まる、赤ちゃんとの生活。満身創痍で心の安定すらままならない時、気兼ねなく頼れるプロと心からくつろげる場所があったならーー。
産前産後ケアホテルぶどうの木は、そんな母親や家族の切実な願いを叶えてくれる新たな施設です。
賛否両論ある「子育て」という分野で、この新たな宿泊業態の定着に挑むのは、ウェンディー・リさん。彼女は産後ケアホテルが「当たり前」になる世界を目指しています。
今後の日本の出産は、どうなっていくのでしょうか。文化人類学博士号を持つ才媛のインタビュー、ぜひご覧ください。
【Hotel&Guest Profile】
産前産後ケアホテル ぶどうの木 京都院
従来の合宿的産後ケアのイメージを刷新する、「女性ファースト」の産前産後ケアホテル。最もダメージを受ける出産期のママと家族のリトリート、育児スタートのサポートのため、プロが常駐する。ママが赤ちゃんを預けて京都観光できる、希有なホテル。他に、大阪院、横浜院がある。
https://ppch-j.com/
ウェンディ・リ
日本の産後ケア文化形成に尽力するぶどうの木経営者。上海外国語大学卒業後、日本に来日して京都大学大学院にて文化人類学を学ぶ。在学中にオーダーメイドインバウンドツアーを手がける旅行会社を起業、その後町家を改修した民泊、ブティックホテルも手がける。
産後ケアホテルという選択肢
「産後ケアホテル」と聞いて、あなたはどんな思いを抱くだろう。「なにそれ?」と興味が湧く人もいれば、「使ってみたい」と意欲的な人、やや懐疑的に「高いし、贅沢」「赤ちゃんは家でみるべき」と思う人もいるかもしれない。おそらくそこには大きな幅があり、定まったイメージは2025年の日本にはないはずだ。
だが、少し視野を広げ、東アジアというエリアに拡大すると話は変わってくるらしい。
「中国、韓国、台湾では、すでに『利用するのが当たり前』なんですよ。20年ぐらい前から普及がはじまって、今では出産する女性の8割が使うとまで言われていますから。」
出産に関わる知識がおよそ10年前で止まっている私に、リさんは穏やかに教えてくれる。選択肢は「里帰りかワンオペか」、ほぼ二択だった当時のことを思い出す。海の向こうでは、すでに新たなサービスが広がりつつあったのか。
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ぶどうの木京都院は、2022年5月に開業した産前産後ケアホテルだ。出産前後の女性と、その家族だけが宿泊できる。開業から2年あまり、各分野のプロ達による指導的ではない「寄り添ったサービス」が高い評価を積み重ね、認知を広げてきた。
退院間もないお母さんが長期でリトリートしながら子育てを学ぶこともできるし、お産から数ヶ月後のちょっとした息抜きとして利用することもできる。
1泊の価格は、およそ5万5千円。韓国は最低14泊から受け入れ、中国と台湾では28泊(帝王切開の場合は45泊)からの受け入れであるのに対して、ぶどうの木では1泊から宿泊が可能。ニーズと状況に合わせて泊数を調整できるので、ずっと利用はしやすいという。
「だけど、家でやり過ごせればお金はかからないわけだし、1週間利用したとしても費用はーー。」
説明を聞きながらのそろばん勘定が表情に出ていたらしい。察したリさんが、丁寧に説いてくれる。
「料金、正直高いと感じますよね。でも、京都院の立地なら一般的なホテルでも1泊2万円はするんです。差額は3万5千円。その料金の中に、常駐する助産師などプロへの相談、三食・おやつ・夜食、昼夜を問わない赤ちゃん預かりといったサービスが入っているんです。」
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院内ではベビーマッサージや産後ヨガ、アロマトリートメントも提供していて、宿泊者の目的に合わせた使い方が可能なのだという。赤ちゃんを預けられるので、美容室にもランチにも行けるし、運動がてら京都観光にも出かけられる。
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「そこにお金をかけたいと思うか。それはその方の価値観によると思います。」
そう、リさんは言葉を続ける。
確かにそうだ。客観的に見てもリーズナブルだと言える範囲だし、それだけの魅力的なサービス・コンテンツを備えているとは思うが、「このホテルが自分達の子どもが生まれるときにあったとして、はたして利用を即決できただろうか」と考えると、どうだろうか。
産後ケアホテルの利用イメージはなかっただろうし、周りに頼らず自分で乗り切ることをよしとしがちな自分は、産後ケアの外注に戸惑いも覚え、心は揺れただろう。このホテルで過ごすことで得られる価値とは、何なのか。要は、そこに納得が行くかどうかだ。
「当院のような施設で産後の傷ついた体をしっかりと労り、夫婦一緒に子育てについて学んでいただく。それによって余裕を持ってお家に帰り、育児を楽しめる状態をつくる。『産後うつや夫婦関係悪化のリスクを考えれば、十分すぎるほどに安い』と考えてくださる方もたくさんいらっしゃいます。」
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率直な疑問への回答に、「そうか」と、思わず呟く。かつてTBSで放送されたドラマ『コウノドリ』で見た、壊れかけた夫婦の姿が目に浮かんだ。
メアリージュンとナオト・インティライミ扮する共働き夫婦のリアルなすれ違いと、産後うつ。当時の私は、母親に寄り添い、父親の在り方に厳しい姿勢を示しながらも適切な方向へ導く医師と看護師の神対応に感激しながらも、「医療従事者にそれを求めるのは無理だ」とも感じていた。
「こんなアプローチがあったのか」と、産後ケアホテルの説明が腑に落ちる。
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「私は、このサービスに一番近いのは介護施設だと思っているんです。2、30年前なら、子どもが親の世話をするのが当たり前でした。当時はいろんな意見が飛び交いましたが、今ではプロの手を借りる選択肢が当たり前になりました。産後ケアも、きっとそうなっていきます。『それが当たり前』と捉えられる文化を作るために、私は産後ケアホテルを作ったのです」
母親になったら、赤ちゃんファーストで自分のことは後回し。でも、リさんは、そうした風潮に「お母さんが幸せでなくて、本当に子どもは幸せになれるのだろうか」と疑問を感じているという。あるべきは、女性ファーストではないのか。そんな思いが、上を向く女性の顔を象ったホテルロゴに込められている。
「異文化」を捉える手法が、新たなサービスを生む
ぶどうの木のアイディアが生まれたのは、コロナ禍のまっただ中、2021年春のことだ。インバウンド需要が高まり、手がけていた町屋の民泊やブティックホテルも順調、新たな施設の開業も間近に控えていた矢先にコロナショックが起こった。やむを得ず、そのまま営業を見合わせることしかできなかったと、リさんは振り返る。
「観光業にはどうしてもアップダウンの波がつきものなのだと思い知らされました。そうした波の中でリスクを分散し、安定した経営を続けるには、観光以外の柱が必要です。そんな中で着目したのが、自分自身も経験していた『出産』でした。」
当時、中韓台の三国で産後ケア文化が普及していたことがヒントになった。東アジアでは、家事と農作業というハードワークが多くの女性に課せられる中、出産後の1ヶ月はしっかりと体を休ませるという養生文化が根付いていた。その文化が今も息づく韓国では、人口が約5千万人・出生率はおよそ0.8%にも関わらず、同国のケアホテルにあたる「産後調理院」は全国で400軒以上も存在していて、同文化圏で人口がさらに半分の台湾でも、200軒以上の施設があるのだという。
一方当時の日本はというと、産後ケアサービスの認知度はほとんどなく、利用者は1%に留まっていた。産後ケアホテルは2〜3軒程度で、母乳育児や母子同室推奨、医療機関のような「合宿指導」のイメージに近い雰囲気に、リさんは大きな課題を感じていた。
「出産期の女性は、本当に大変な思いをしています。しばらく赤ちゃんの顔を見たくなくなってしまう時があるのだって、当然なんです。だったら、信頼できるプロの手に委ねて、一人で外出して、気持ちを切り替えた方がいい。この産後ケアの利用を日本で普及させ、外部の手を借りることを『贅沢なこと』から『当たり前』に変えていくのが、私達のミッションだと考えたんです。」
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自己の出産経験で感じた課題意識から、自分の欲しかったサービスを創りはじめた。そんなストーリーであるように聞こえるが、実はそうではない。この事業の着想を得て、彼女が最初に行ったこと、それは奈良女子大学で妊娠・出産について研究する文化人類学者である松岡悦子名誉教授に連絡をとったことなのだ。
「日本で出産を経験を通して、私も悩みました。ですが、それはあくまで私個人の経験にすぎません。世の中のお母さんたちが産後に何を求めているか、何が必要なのか、何が課題なのかを知るためには、身近な人に聞くだけではない、ちょっと大きなサンプリングが必要だと思ったんです」
130名の2歳未満の子を持つ母親に対して行ったのは、一人ひとりの生活環境に身を置いて行動を観察し、隠れたニーズや課題を探し出す「エスノグラフィックリサーチ」だった。
「ヒアリングやインタビューは一つの手法ですが、文化人類学的に重要な手法は、いわゆるフィールドワーク、参与観察です。人は、言葉にならない思いを持っています。他のことを聞くことなどで、その本当の考えが浮かび上がってくるんです。」
私達は商品やサービスを考えるとき「ニーズがあるところに作ればいい」「お客様の声をもとにサービスを作ろう」と考えがちだ。だが、それは本質からズレている場合も少なくない。
「そのニーズとは一体何なのか。そこから問いを始めてリサーチし、物事の本質を見ることが大切です。ぶどうの木のサービスデザインには、京大大学院で研究した文化人類学が活きているなと実感します。」
リさんははにかむ。就職に興味が持てず、ある日出会った本に夢中になり、潰しが効かないと揶揄されながらも文化人類学研究者を志したバックグラウンドが、彼女にはあったのだそうだ。
「異文化は、外国に行かないと出会わない。そう思ってしまいますが、実際にはそうではありません。自分とは異なる考え方・価値観、それを『異文化』だと文化人類学では捉えます。原点に立ち戻って本質を見る。この学問は社会のトレンドなど情報が溢れる現代にこそ必要なツールなんです。」
東アジアで広がる産後ケアのやり方を、そのまま日本に持ってきていいのか。日本独自の文化に合わせたサービスの構築が必要ではないのか。本当にリサーチしたことはお客様のニーズをとらえているのか。
常に本質を問いながら、目の前にある「異文化」を見つめ、試行錯誤と検証を繰り返す。その営みによって、産前産後ホテル・ぶどうの木は創られてきた。それは、単なる模倣ではない。
最も思想がぶつかる「子育て」というテーマで
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「子育ての始まりからイノベーションする」をビジョンとして掲げ、産前産後ケアホテル事業は2022年に産声を上げた。
入念なリサーチとビジョンのもとにプロフェッショナルが集ったわけだから、きっと運営もスムーズに行ったのだろう。私はそう安直に考えたのだが、どうやら違うらしい。リさんは首を横に振り、苦々しくもどこか楽しそうな笑みを浮かべながら、振り返る。
「スムーズとは真逆、本当にいろんな試行錯誤がありましたよ。『子育て』って、一番思想の衝突が起こるテーマなのかもしれない。夫婦であっても、子どもをどう育てるかは意見がぶつかります。本当にいろんな考え方があって、どれが正解なのかはわからない。だからこそ、サービスの提供の仕方一つをとっても、さまざまな衝突がありました。」
開業当初、東京から利用に来たゲストから「赤ちゃんを預けて外出したい」と申し出があった時には、リさんを含めたスタッフ全員で激論が交わされたそうだ。
「赤ちゃんはまだ2ヶ月だから一緒にいた方が良いという意見、外出するなら3時間までとするルールを設けようという意見、母乳じゃないなら3時間までというルールも不要という意見、本当に様々でした。」
まさに異文化の衝突。そこには、スタッフのこれまでの培ってきたキャリアに由来する「立場上の混乱」もあった。病院での指導的な関わりから、ホテルでの寄り添ったサービスへの転換が求められ、そこにゲストの高い期待値もある。
「長期宿泊の方への声がけを改めるきっかけになった出来事もあります。助産師スタッフが、夜に赤ちゃんを預け続けているお客様に気を揉み、『そろそろ夜に赤ちゃんと寝る練習をしましょう』と切り出したことがコンプレになってしまったんです。」
家に戻れば、夜も赤ん坊と一緒に過ごす生活が、母親を待っている。そこへの心配から出た一言には違いない。だが、ゲスト側には、サービスの適正な利用にも関わらず「注意されて練習を押しつけられた」という印象を与えてしまった。
こうしたすれ違いを防ぐため、またもぶどうの木では激しく議論が交わされた。導きだされたのは、「長期宿泊の方には、退院4日前にヒアリングを行う」というオペレーションだったそうだ。
ゲストへのヒアリングで「困ったことや練習したいことはありませんか?」という問いかけることで、不安な点や練習したいことを聞いていく。このアプローチなら「確かに不安だし、教えてほしい」とゲストは気持ちに気づき、打ち明けることができる。それに対して、「大丈夫、まだ4日あるから十分間に合いますよ」とスタッフは気持ち良く応答することができる。これでこの種のトラブルはなくなったという。
「今も試行錯誤ですよ。最近では企業とコラボして、育児関連商品をホテル内でお試しいただけるサービスを始めました。だっこ紐一つとっても、本当に役立つものからそうでないものまでたくさんあります。グッズ選びで迷ってしまう方が多いことがわかってきたからこそ、私達プロの手で厳選したものを使いながら選んでいけるようにしたのです。」
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実際に泊まるお客様の様子や声を細やかに拾い上げて、ニーズを理解し、本当に必要なサービスへと仕上げていく。スタッフ、ゲスト、さまざまな異文化同士が衝突する場面があっても、それが新たなサービスの形に昇華されていく。それは、物事の本質に立ち戻って考える文化人類学の視点が共有されているからに他ならない。
産後ケア文化は1社にしてならず
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結びとして今後の産後ケアホテルの展望を聞くと、先行きを示す朗らかな表情で、リさんは答えてくれた。
「数年前は3%しかなかった産後ケアサービスの利用率も、どんどん上がって来ています。でも、中韓台80%であることを考えれば、まだまだ日本は伸び代があります。産後ケアというのは、間違いなく社会で必要とされるサービスです。関東でも大手が参入を始めてくれましたが、もっともっとたくさんの企業に参入してほしいと私は思っています。」
普通、新たな市場を見つけたら「まだ参入してくるな」と囲い込みたくなってしまうものではないのか。思わず聞くと、彼女は「とんでもない!」と驚いたように笑った。そして、真剣な面持ちで続ける。
「文化形成には、社会全体の力が必要なんです。細々とやることではないのだから、大歓迎ですよ。介護サービスだって、その数が少ないうちは『親の面倒は自分でみた方がいいんじゃない?』って言う意見も多かった。たくさんの人達の力が集まって、今のように当たり前に浸透している時代ができたんです。」
文化形成は、一つの施設では決してできない。たくさんの企業や関係者が集まって初めて、日本全体に広げていく力が生まれる。だからこそ、リさんの目は「産後ケアホテル業界」をどう創っていくかを見通そうとしている。
「バレンタインデーのチョコがいい例です。1社だけで『チョコをあげた方がいいよ』と言っても、『え〜』ってなっちゃうでしょう?それは、一社では絶対にできないんです。だから、『誰も参入しないで』なんて絶対に思いませんよ。私達はパイオニアとしてノウハウも蓄積していますから、今こそみんなに参加して欲しいんです。」
まさに今、文化人類学者の本質を捉える視点が、日本に新たな産後ケアサービスを生み出している。そしてこれが20年後の産後ケア文化のスタンダードになっていくーー。彼女の言葉で一瞬、未来の社会が垣間見える。
自分の子ども達が年頃を迎え、産後ケアホテルを当たり前のように利用したとき、「実は、20年前に、あの『ぶどうの木』を取材したんだけどさ・・・」なんて語り出したい。そんな日が来ることををつい夢想してしまう、ウェンディー・リさんへのインタビューだった。